「好き」と「萌え」は比例するのか否か

これはここ数ヶ月、ずっと自分の中でぼんやりと考え続けていたことなんですけれど。
私はキャッキャしているあらしさんたちを見て「はいはい、楽しいね楽しいね」という気持ちになることはあっても「うわあああ、ちょう萌えるううううう」という感情を抱くことがいつしかほとんどなくなってました。個人のお仕事でも然り。でもそれは嵐のことが嫌いになったとか興味がなくなったとかそういうことではなく、私自身があらしを「アイドル(萌え対象)」という括りから離れたところに置いているのかな、と思っていて、自分にとって嵐は嵐以外のなにものでもないような気がします。先日アミコさんとお会いした際に「嵐はどこに出しても恥ずかしくないから安心して放っておける」というようなお話をしたり、SWITCHのインタビューで「嵐をひとつのジャンルにもっていきたい」という翔さんの言葉を読んだりする中でそんなことをうっすらと考えていたのですが、ドーム公演であの幸せな空間に身を置いてぼんやりとした思いが確信に変わりました。
ステージで最高のパフォーマンスをしている彼らを見ているのもすごく幸せだったけど、客席を見渡しているだけでなんだか無性に嬉しかったのは、やっぱりみんなで一緒にここまで来たね!っていう思いがあったからで、ひいては好きでもない人たちと一緒に歩いていくことなんてできないわけで、そこはどう考えたって嵐のことが大好きなんだろうな、と思うし、こんな大好きな空間はこれから先もずっと嵐のことが大好きな人たちと共有できたら本当に幸せなことだろうなと思ったのです。こんなブログの片隅から私がとやかく口出ししなくったって、あらしもさくちんもみんなが幸せになれるところへ歩いていってくれると信じられるから萌えようが萌えまいが生きていけるんだよ!
誤解のないよう付け加えると、私は決して萌えることに興味がないわけではありません。むしろ大好きです。そして今現在、私に「ぎゃあああ!なにこれ!かっこいいいいいい!萌えるうううう!!」という感情を最も提供してくれる人、それがにしきどりょうであり、コイツが絡むといちいち全力で一喜一憂してしまうあたり私は所謂にしきど担なのかな、と思います。だってさくちんの良さは私が敢えて広めなくてもいいかな、と思うけれど、りょうたんのことは必死で世間に伝えていきたいと思うんだもの。
というわけで、「好き」と「萌え」は比例するのか否か。私の答えは否、です。あくまでも私個人の見解ですが。勝手に書きなぐって勝手にスッキリしました。長々とありがとうございました。